非常事態宣言が解除された5月25日の朝、信州安曇野・松本平に「かっこう」の鳴き声が冷たい空気を通じて届きます。
周囲を見回すけれど姿が見えません。
いつか撮影したいと思うのですが、居場所が不明です。
ユーラシア大陸から5月には渡ってくるようです。
いつも5月下旬です。
かっこうの別名はさ閑古鳥。
古来、日本人はかっこうの鳴き声に物寂しさを感じていたようですが、私には楽しい思い出だけです。
1980年より順天堂大学医学部第一病理学教室(当時、福田教授)の研究生となり、毒性病理や電子顕微鏡での研究を行いました。
当時の病理学教室は野球が盛んで「SARCOMA」(肉腫)(監督、桑原助教授)という恐ろし気でかつ病理学教室らしい名前の野球チームができていました。
私の本拠地は、松本の製薬会社。
松本から時折上京し、昼休みに野球の練習を行い、野球チームの良さに目覚めたのです。
一応、大学教養部では野球で単位を取っており、村の朝起き野球にも参加していました。
順天堂に倣い、私達の毒性学研究室には野球チームがなかったため、急遽チームを結成し、「SARCOMA」に対抗すべく荒武者的な名前「MONGREL」(雑種、荒くれ者)を付けたもののです。
当時、横浜ホウェールズが脚光を浴びており、ユニホームは紺色の上衣、白のズボンとして、恰好だけは一人前に仕上げたものです。
毒性学研究室に「MONGREL」野球チームができ、ユニホームを作り、人数もそろいました。
監督はもちろん私で二番手エース。
順天堂大学の「SARCOMA」との対抗野球試合をやる準備は出来上がり、最も気候の良い、澄み切った空と空気の信州松本・安曇野での対抗試合が始まったのです。
それが、かっこうの鳴く頃、毎年5月下旬でした。
順天堂大学医学部第一病理の教授・助教授・講師・助手・大学院生・秘書など総勢が1泊どまりで、来松してくださいました。
迎え撃つ我ら「MONGREL」も研究室全員が準備、参加し、練習にも余念がなく、毎回2試合を行ったものです。
1988年、製薬会社を退職するまで続けて行いましたが、その後はいつまで続けて行われたのか、詳細は不明。
しかし、当時から40年、毎年5月末の対抗試合が終わる1988年までの想い出は強烈です。
毎年、かっこうが鳴くと当時を思い出します。
5月24日、城山公園から望む松本平
新着5件
新着5件